絵画鑑賞
小森紀綱さんの個展「生への誄詞」に寄稿したテキストです
絵画鑑賞
布施琳太郎
機能や目的を持ったものが、それらすべての機能や目的を失って眼前に置かれている。これはなんなのだろう? 白い壁に、四角い板が引っかかっていた。表面にはさまざまな透明度の塗膜が重ねられており、不透明なザラザラの上に、粒子が、攪拌された水溜りのなかを漂う土埃のような粒子が見える。少し離れて見てみると、その板は小さな窓越しの景色のように感じられた。これは絵画です、と隣の青年が言う。しかしこの板が絵画なら、この板の上で四角く区切られた部分は? それも絵画なんですよ。なにを言っているのか分からない。じゃあ、この内側のクネクネとした線はなんです? それは陰影ですね。陰影? はい。
歴史が、ひとつの生涯のなかでいくつもの仕方で組み替えられていく。父と母は、それぞれの信仰を持っていた。だから僕は別の信仰を求めている、作ろうとしている。しかしこうして作られていく幻影にどのような価値があるのか、分からない。それでもそれに価値があるのなら、その組み替えの成果物は、まず、これまでになかった仕方で人と人を集め、分別する機能を持つときだろう。
この絵画のために集まってきた人々を眺める。彼、彼女たちは、首をかしげたり、板に近づいたり、遠ざかったりしていた。
偶像崇拝という言葉が声に出される状況は、宗教が、もはや宗教として十分に機能していないことを意味するのだろう。その言葉を発するとき、人は、すべての人々のなかの幾人かは、偶像として表象される契機となった事象を、事物を、存在を、すでに信頼することができなくなっているのだ。ああ。それはいまここにある絵画のことですか? そうかもしれないね。絵具がガサガサと画面に擦り付けられていた。それを指差して青年は言う。
「しかし不思議ですよね」
「なにがです?」
「ええっと、つまり、絵のなかに絵を描くこと、ですかね」
眼がふたつあるみたいなことなのかな、と、想像していると、もうひとつの言葉を彼は紡ぐ。
「嘘みたいに思えますか?」
「そうだね」上の空で言葉を返す。
「その嘘、信じてみたいと感じます?」
いま何を言われたのか聞き逃してしまった。だから展示会場をもう一周して、何かを考えているふりをする。そうしてみてはじめて、この板の平たさ、画面上に重ねられた絵具の複数のツヤ、そして複雑なグラデーションとそれを縁取る線たちが、ばらばらに目に飛び込んでくる。しかし画面に落ちた影の引き伸ばされた色彩は、その断片たちがひとつの空間を形作ろうとしていることを教えてくれる。画面をひっくり返したら露わになるんだろう十字に組み合わせられた木の枠のようなものが、こちらの面に描かれていた。遠くにあるものが大きく見える。
私たちは様々な技術を失いながら、失われた世界を表象することで歴史を築いてきた。忘却自体が忘却された地平で、私たちは生き生きと生きている。そして僕は……目的を失った遺構たちがひしめき合う「現在」という名の砂漠に、どうにかして自分も何かを置くことができないものかと機会を窺っていた。何かを喪失しながら、それ自体を推進力として新たな技術を手に入れて、世界を再構成するために。
何かが失われたのだという事実だけが主語を欠いて存在している。そして僕の前には絵画がある。歴史が組み立てられていく。しかし歴史と信仰は遠く隔てられていた。その景色は芸術と呼ばれている。