「空襲のときにね、名前の分からない死体を
コンクリートと一緒に流し込んで隠したんだって」
だれもいない埋立地、
形だけの工場が並んでいて、強い風がふたりの髪の毛をかき混ぜる。その音をかき分けてカソードが「ネットで読んだだけなんだけど」とくちごもった。百年近くも昔の話じゃんねと思いながらゴムサンダルの裏をゴツゴツした床に擦り付けるアノード。
暗渠の奥から腐臭が吹き出している。それは髪をざらざらにして、鼻と口がひとつの空間であることを
教えてくれる。
水平線から空が青く染まっていく。
いつの間にか美しくなってしまったアノードは「なにかが腐ることで生き延びることができるものも、」と言って、言葉につまる。川か海かわからない水面をすべる船が沈黙をつくった。そうして朝日を浴びながら言う最初で最後の
「またね」
またね
さっき、つまり深夜二時。ふたりきりの部屋でカソードはひとり椅子に座っていた。テーブルに置かれた小さな卵みたいなプラスチックから長さの違うふたつの金属の線が伸びている。長い方がアノードで、短い方がカソード。それは秋葉原で買った十個で百十円の青い光、ひとつ十円。ふたつの卵の、それぞれのアノードとカソードをつなげたとき、背後から寝息が聞こえた。一方の卵にiPhoneのあかりを近づけると隙間から白い光が漏れつつ、もう一方が青く光る。光が電圧を生み出し、電子が走り出すことを光電効果と言うらしい。
アノードが育った町の田んぼ
は、
数年に前につぶされた。代わりに
地平線の彼方まで並べられた黒い板
は、
太陽の光を電気にするらしい、
生活が明るくなるらしい、けれど去年の台風で全部こわれた。
この部屋にはふたりがいるけれど、ひとりは夢を見ていて、もうひとりは青い光を見ている。ふたつの卵のひとつは光を当てられていて、もう一方は光を発している。名前を知らないから、少し遠くにある寝顔に声をかけることもできない人。アノードとカソードのあいだで目には見えないものたちが動き回って飛び出し部屋のなかを走り回ったせいで伸びるふたつの影、
になれたならふたりはもっと幸せになれたかもしれない。
不必要に明るいトイレに入ると遠くにあるものが大きく見えた。半透明の卵のなかから、その網膜の奥までピタッ、と直線が引かれると同時に灰皿から伸びる煙のせいで湿った目尻。
アノードとカソードは電気を流すだけ。でもふたつをつなぐ卵のなかにある半導体は、
それを一方通行にする。
その向きは充電のときと放電のときとで逆になるから、どちらがえらいとか、そういう関係ではなく、だれかのおかげでつなげられた私たち。
閉じられた回路のなかで
押し出された電子たちがアノードとカソードのあいだをグルグル走り回ると薄暗かった部屋がぼんやり照らされた。本棚もテーブルも食べ残したコンビニ弁当のデロデロした米もすべてが灰のように見え、つつも、網膜の半分が死んでいるのを感じたカソード。
テーブルの向こうにある剥き出しの肌、が、いちばん白く、あとは黒い、くらい。見えているの、が、肩なのか腰なのか。この腕の関節でないところの筋肉をこわばらせると
少しだけ向こうまで指がのびる。
そうしてみてもとてもとても冷たく硬い板にこの爪がぶつかって鈍い音を立てるだけ、にもかかわらず、あの剥き出しの肌には手足が胴がくちびるがあるから一方的にこの腕をつかみ、撫でることができる名前を知らない人。の、直線のない塊。は、やわらかい。それぞれの指先で左右に振り分けられたアノードとカソードは駅前のマルイで待ち合わせをしてカクカクしたビルの隙間で串焼きを食べて醜く太ったまま、ふたりきりの部屋に入った。名前の代わりに年齢を確認するアノード。足元に投げ出されたリュックのなかにあるのはモバイルバッテリー、ハードカバーの重たい本、替えのパンツ、十個の卵、歯ブラシ。
(はじめまして!)
(食事などできる友達をさがしたくて登録してみました。初心者なので
まだまだ使い方わかってませんが……)
(はじめまして、お食事よかったらしましょう!)
(ぜひぜひです)
(次の月曜日か火曜日とか、どうですか?)
(火曜日あいてます!)
(お、では火曜日に!)
(あまり東京に詳しくないのですが、おすすめのお店とかあります?)
(夜ご飯にします?)
ウイスキーの注がれたグラスが薄暗い部屋の照明をねじ曲げて折りたたむことで、ちいさくも力強い光の束をテーブルのうえにつくりだしたとき、なにを見ているのかわからなくなった。
「明日、何の日か知ってる?」
答え合わせできない未来について考えることだけ
が、ここにいることを肯定してくれる気がしてた
左回りの時計を作っても過去に行けるわけもなく時は進む、もし顔より先に名前を知っていたらどうだったかな、どうしようもなく、どうにかなってしまえ。と、思ったからシャワーの音を聞きながらなにもできない。一度も必要とされたことのないものたちが洗い流されたからくっつくことができる肌と肌、行き来する電子。白く濁った乳液を肌に馴染ませる。