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嫉妬と浮気の存在しない世界を生きるサイボーグ

st4sh.substack.com

嫉妬と浮気の存在しない世界を生きるサイボーグ

布施琳太郎
Jan 2, 2022
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嫉妬と浮気の存在しない世界を生きるサイボーグ

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 浮気、あるいは浮気の予期以外に対して嫉妬することはありえるのだろうか。浮気の定義は、ひろく社会で論じられるものであるが、主な問いは「どこからが浮気なのか?」である。だがそれは、人間関係を科学的に縮減した問いに思えてならない。


 仮に、ヒカルとレイというふたりが恋人同士であるとしよう。ふたりは共通の友人を通じて知り合い、そしてその友人を介さずにふたりで出かけたりするなかで、言葉を交わし、景色を共有し、そしてレイは堪えきれなくなった想いをヒカルに伝えた。太陽がビルの向こうに隠れ、青から赤へのグラデーションが公園の池に反射する。レイは言葉を尽くした。自分の人生のすべてをかけて。夜が来る。黒い池。街灯が水面を揺らす。レイの指をやさしくつまんだヒカルは、手のひらを合わせる。ふたつの汗がヒカルとレイの境界を曖昧にする……その日から、ふたりはより多くの時間を共有するようになった。

 ヒカルとレイは、互いを愛しているし、愛されたいと思っている。だからプレゼントを交換したり、これまでに使ったことのない言葉を探しながら、それぞれの想いを表現した。しかし、ふたりの思考が完全に共有されることはなく、あくまで「互いに表現する」のみだ。そうした時間こそが幸福だし、それに満足している。だけどそれに疲れることもあるだろう。そういうときは別の誰かと時間を過ごしたりもする。ひとりきりで遠出することだってあるだろう。


 こうして複数の時間を行き来することこそが、人生の豊かさなのだと僕は考えてきた(そのバリエーションとして展覧会や読書は存在している)。だから複数の時間の行き来を浮気だとは思わない。むしろ人生に付け加えることができるもっとも特別な時間のバリエーションこそが、恋人たちの時間である。

 そこから離れてみることは、ふたりの愛を試す行為ですらないだろう。その上で、ヒカルがレイに恋心を抱いたのと同じように、まったく別の誰かに対して同質の想いを抱く可能性は、過去にも未来にも否定できない。


 嫉妬という感情は、あまりに複雑である。ヒカルに幸福であって欲しいレイは、色々な人と様々な場所で幸福を感じていて欲しいのだが、それと同時に、そこに自分がいない事実に胸を締め付けられる。自分といるときには感じることのない種類の心地よさを、自分がいない場所で感じることができるのは、とても豊かなことだ。しかしそのヒカルの幸福は、自分の不在によって成立しているのではないか?あるいは、自分と一緒にいるとき以上の幸福がそこにはあるのではないか?

 そうした疑心暗鬼によって、嫉妬は生じる。そもそも自分以外の人間と恋人が過ごす時間が、自分と一緒にいるより幸福でなかったなら、嫉妬は生じないだろう。しかしそうした考えは、恋愛において、もっとも根本的な誤りである。

 人の感情を量として計測しようすること。これは不幸な結末しか生まない。だから僕は人間の感情や関係を量で測ろうとする態度には、徹底的に敵対していたい。恋人をはじめとしたあらゆる人間関係において、その結びつきの強さの理由を計測することが不可能であること。たとえば、自分よりも多くの時間を特定の誰かと過ごすヒカル。あるいは自分よりもヒカルについて多くのことを知っている人がいること。そうしたことを引き合いに出して、もしも、何かと何かを比較しながら問いかけようものなら……そこにある関係はすでに破綻している。

 あるいは人間関係を量的に計測しようとするとき、浮気も嫉妬も、すべての人間にひらかれたものとなる。Wikipediaによると、浮気とは「夫婦であるか、または恋人がいるにもかかわらず、他の異性に愛情が移ること」だ。しかし不貞行為ならまだしも、あくまで浮気が定義問題であるからこそ、耐え難い嫉妬を惹き起こ行為としてしか定義できない。つまり性的指向の多様性を考慮するまでもなく、人間関係を量として捉える限り、嫉妬も浮気も無際限に拡張可能されていくのだ。


 量を前提とした嫉妬、それによる浮気の発見は、自分の存在を他と比較することを通じて、人間を科学的に矮小化するのだ。この矮小化=嫉妬とはまったく異なる回路によって二者関係を成立させるために重要なのが「秘密の共有」である。僕は『隔離式濃厚接触室』についてのテキストで「秘密の共有」について語ったが、それはジョルジュ・バタイユによる一連の思想の身勝手な要約=誤読から発想したアイデアだ。


 「秘密」とは、バタイユがエロティシズムに関する議論で述べるところの「禁止」だと言ってしまってもかまわない。たとえば都市のなかで裸体は禁止されている。普段は布に覆われた身体の部分を見せ合うことは禁止の侵犯であり、そうであるからこそ、その肌をまなざし、触れ合うようなコミュニケーションは恋人たちだけに特別な行為なのだ。だがエロティシズムは性行為についての論ではない。むしろそれは、私たちの生きる社会一般における共同体理論の構築を目的としている。

 禁止されたのは裸体だけではない。例えば殺人は禁止されている。そして合意のもとで生贄として殺される身体と、殺す身体(たち)のあいだには恐るべき結びつきが育まれるだろう。そうした禁止と侵犯のやりとりの、その経済によって成立する共同体理論としてのエロティシズムに僕の関心はある。

 そして(不貞行為としての)浮気は、裸という禁止と同時に、より公共的な禁止を侵犯する行為だ。そこでまずなされるのは裸をはじめとした性的な禁止の侵犯なのだが、その禁止と侵犯の運動によって生じる二者の結びつきの全体は、また別の禁止を侵犯する。浮気が人間を魅惑してしまうのは、それが二重の禁止を侵犯するからに他ならない。ある時代の社会で共有された禁止を、複数同時に侵犯することは、より強い陶酔を侵犯者にもたらす。だがそれは確実に、本人の生活をあらゆる面で蝕むものだ。この蝕みは、陶酔のなかで官能的に捉え返されることで生の実感となるわけだが、それに頼らなければならないような人生は果たして幸福なのだろうか?

 まずここで重要なのは「禁止の侵犯」や「エロティシズム」に関するバタイユの議論が、人間の結びつきを量によって計測しようとしないことだ。共同体の内部でなされるコミュニケーションの質によって思考しようとするとき、人間存在は、科学的に矮小化されることはない。


 バタイユにおける「禁止の侵犯」を「秘密の共有」へと置き換えてみよう。この唯物論から言語(論?)的転回を経ても、人間のむすびつきを量ではなく質によって思考することに変化はない。秘密の個数は問題ではないからである。秘密が共有され、それが保持されることによって生み出される共同体。レイがヒカルに対して述べた愛の発話は、その他のどのような場所においても再演することのできない秘密である。ふたりがどのような人生を歩むとしても、この秘密から逃れることはできない。

 「秘密の共有」は呪いと近いが、決して呪いではない。なぜなら恋人を含む共同体の作り方として「秘密の共有」を信用するとき、当の恋人がこれまでに引き受けてきた/引き受けさせられたすべての秘密を肯定することを意味するからだ。

 目の前の人間が、どう足掻いても、自分から隔てられた他者であることに耐えること。それでもレイとヒカルは、過去と未来における他のどのような結びつきとも異なる結びつきのなかにいること。その世界には浮気も嫉妬も存在しない。なぜならすべての関係を、個別に独立した、特別なバリエーションであることを認めるからある。

 浮気や嫉妬の存在する世界と、存在しない世界の、どちらが幸福だと思うかはあなた次第である。しかし僕が唱える「新しい孤独」とは、後者の世界における芸術の経験のことなのだ。


 最後に付言しておくなら、「秘密の共有」は恋人だけでなく、あらゆる種類の共同体の成立に役立つ実践的な技術である。だからこそ、それは危険だ。ふたりのあいだでしか共有できないような秘密こそが、より強く、大きな結びつきを作り出す。そこにある関係は平等で、真にフラットなものだ。しかしそうして共有された秘密は、二者の関係をあまりに特別なものとするので、最後には境界を失ってひとりの人間となってしまう。

 そこまで至ったとき。二者の関係が破綻し、もはや会うことも話すこともなくなった後ですら、自分の半分を失うことになる。そうして作られたふたつの心臓を持つサイボーグは、もはや誰でもないだけでなく、人間ですらないだろう。だから人間として生きることは辛く、美しいのだ。

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