Rewrite:浮気と嫉妬の存在しない世界を生きるサイボーグ
書き直しです
嫉妬が、浮気、あるいは浮気の予期以外に対して向けられることはありえるのだろうか? 実際、浮気というのはバレる以前にバレている。つまりなにかを隠していることを隠すのはひどく困難であり、背徳感や罪悪感に基づいた秘密は、相手に勘付かれることを避けることができない。むしろ自分の人生を特別なものだと思い込みたいが故の、あまりに使い古された罪の再生産によって——実際のジェンダーやセクシュアリティがどうであれ、ひどく保守的な性の欲望の発露/受け入れによって——自らの存在を取るに足らないものに矮小化するのが浮気当事者である。
常にバレ、保守的であるからこそ、浮気の定義は、さかんに論じられる。そこでなされる問いは「どこからが浮気なのか」だ。それは、自分の人生が特別なものであって欲しいという願いによって問われているのだが、実際のところ、それを問い直せば問い直すほどに自らの生をひどくつまらないものにしてしまっている。
仮に、ヒビキとレイというふたりが恋人同士であるとしよう。ふたりは共通の友人を通じて知り合い、そしてその友人を介さずにふたりで出かけたりするなかで、言葉を交わし、景色を共有し、そして堪えきれなくなった想いをレイはヒビキに伝えた。太陽がビルの向こうに隠れ、青から赤へのグラデーションが公園の池に反射する。レイは言葉を尽くした。自分の人生のすべてをかけて。そして夜が来る。池が黒に包まれる。街灯が水面を揺らす。レイの指をやさしくつまんだヒビキは、手のひらを合わせる。ふたつの汗がヒビキとレイの境界を曖昧にする……その日から、ふたりはより多くの時間を共有するようになった。
ヒビキとレイは、互いを愛しているし、愛されたいと思っている。だからプレゼントを交換したり、これまでに使ったことのない言葉を探しながら、それぞれの想いを表現した。しかし、ふたりの思考が完全に共有されることはなく、あくまで「互いに表現する」のみだ。そうした時間こそが幸福だし、それに満足している。だけどそれに疲れることもあるだろう。そういうときは別の誰かと時間を過ごしたりもする。ひとりきりで遠出することだってあるだろう。共有された時間と、隔絶された時間の行き来によって、ふたりはより強い幸福に包まれる。
こうして複数の時間を行き来することこそが、人生の豊かさなのだと僕は考えてきた(そのバリエーションとして展覧会や読書は存在している)。だから複数の時間の行き来を浮気だとは思わない。むしろ人生に付け加えることができる時間のバリエーションこそが、恋人たちの時間である。そこから離れてみることは、ふたりの愛を試す行為ですらないだろう。
その上で、嫉妬という感情は、あまりに複雑である。ヒビキに幸福であって欲しいレイは、色々な人と様々な場所で幸福を感じていて欲しいのだが、それと同時に、そこに自分がいない事実に胸を締め付けられる。自分といるときには感じることのない種類の心地よさを、自分がいない場所で感じることができるのは、とても豊かなことだ。しかしそのヒビキの幸福は、自分の不在によって成立しているのではないか? あるいは、自分と一緒にいるとき以上の幸福がそこにはあるのではないか?
そうした疑心暗鬼によって、嫉妬は生じる。そもそも恋人が自分以外の人間と過ごす時間が、自分と一緒にいるより幸福でなかった(と思えた)なら、嫉妬は生じないだろう。しかしそうした考えは、恋愛において、もっとも根本的な誤りである。
人の感情を量として計測しようすること。これは不幸な結末しか生まない。僕は人間の感情や関係を量で測ろうとする態度には、徹底的に敵対していたい。恋人をはじめとしたあらゆる人間関係において、その結びつきの強さの理由を計測することが不可能であること。たとえば、自分よりも多くの時間を特定の誰かと過ごすヒビキ。あるいは自分よりもヒビキについて多くのことを知っている人がいること。そうしたことを引き合いに出して、もしも、文句を言うのなら……そこにある関係はすでに破綻している。
量を前提とした嫉妬、それによる浮気の発見は、自分の存在を他と比較することを通じて、人間存在を科学的に矮小化するのだ。この矮小化=嫉妬とはまったく異なる回路によって二者関係を成立させるために重要なのが「秘密の共有」である。僕は『隔離式濃厚接触室』についてのテキストで「秘密の共有」について語ったが、それはジョルジュ・バタイユによる一連の思想の身勝手な要約=誤読から発想したアイデアだ。
「秘密」とは、バタイユがエロティシズムに関する議論で述べるところの「禁止」だと言ってしまってもかまわない。都市のなかで裸体は禁止されている。普段は布に覆われた身体の部分を見せ合うことは禁止の侵犯であり、そうであるからこそ、その肌をまなざし、触れ合うようなコミュニケーションは恋人たちだけに特別な行為なのだ。だがエロティシズムは性行為についての論ではない。むしろそれは、私たちの生きる社会一般における共同体理論の構築を目的としている。
禁止されたのは裸体だけではない。例えば殺人は禁止されている。そして合意のもとで生贄として殺される身体と、殺す身体(たち)のあいだには恐るべき結びつきが育まれるだろう。あるいは殺害までいたらなくとも、相手の身体に取り返しのつかない傷を付けることは、ひとつのエロティシズムの形態だ。血判状は、まさにエロティシズムにおいて可能な共同体の成立方法なのである。それはまったく無用な傷によって、ひとつの書類を制作することで、強烈な結びつきを生み出すのだ。
そうした禁止と侵犯のやりとりの、その経済によって成立する共同体理論としてのエロティシズムに僕の関心はある。バタイユにおける「禁止の侵犯」は「秘密の共有」に置き換えることができる。置き換えてみても、人間のむすびつきを量ではなく質によって思考することに変化はない。秘密の個数は問題ではないのだ。あくまで秘密が共有され、それが保持されることによって生み出される共同体。レイがヒビキに対して述べた愛の発話は、その他のどのような場所においても再演することのできない秘密である。ふたりがどのような人生を歩むとしても、この秘密から逃れることはできない。
そして(不貞行為としての)浮気は、裸という禁止と同時に、より公共的な禁止を侵犯する行為=秘密だ。そこでまずなされるのは裸をはじめとした性的な禁止の侵犯なのだが、その禁止と侵犯の運動によって生じる二者の結びつきの全体は、また別の禁止を侵犯する。浮気が人間を魅惑してしまうのは、それが二重の禁止を侵犯をするからに他ならない。ある時代の社会で共有された禁止を、複数同時に侵犯することは、より強い陶酔を侵犯者にもたらす。
だが浮気は、そもそもすでに描かれた物語の登場人物へと自分を投影する行為に過ぎない。浮気とは、つねに演じられたものなのだ。だからこそ浮気は、確実に、その当事者の生活をあらゆる面で蝕む。この蝕みは、陶酔のなかで官能的に捉え返されることで生の実感となるわけだが、それに頼らなければならないような人生は果たして幸福なのだろうか?
そして演じられた浮気に嫌気がさした人々によって、作り出されたのが「NTR」(寝取られ)と「オープンリレーションシップ」である。それは徹底的にリアルだ。
寝取られにおける典型的な物語とは、相思相愛のふたりのうちの一方が、背徳感や罪悪感に苛まれながらも別の人物との性行為を為してしまい、そうして快楽に耽るうちに元の想い人の存在を忘れるまでにいたる過程……の、その全体に対して、当の想い人自身が性的な興奮に包まれるものである。それは浮気という秘密を、覗き見るという「秘密の共有」によって超克する物語だ。こうした過程において「どこからが浮気なのか」という問いは、一線を超えないためではなく、一線を超えるためにこそ議論されることになる。こうして超えられた一線は、ふたりという関係を超えて、すべての登場人物がなにも手に入れることができないという極限の孤独に放置されることこそで、絶頂の理由となる。そしてその隔絶された絶頂へと想像的に同一化することによって、寝取られは、ひとつのポルノになる。
オープンリレーションシップについては、僕は、まったくの門外漢である。だがそれでも、直感として、ここまでの議論と関係づけて思考することで得ることがあるという賭けにおいて——オープンリレーションシップが極限的な「秘密の共有」によって成り立つという点で——ここに言葉を残しておきたい。
まず重要なのは「エロティシズム」、「禁止の侵犯」や「秘密の共有」が、人間の結びつきを量によって計測しようとしないことだ。あくまで共同体の内部でなされるコミュニケーションの質によって思考しようとするとき、人間存在が矮小化されることはない。
そして恋人を含む共同体の作り方として「秘密の共有」を信用するとき、当の恋人がこれまでに引き受けてきた/引き受けさせられたすべての秘密を肯定することを意味する。目の前の人間が、どう足掻いても、自分から隔てられた他者であることに耐えること。それでもレイとヒビキは、過去と未来における他のどのような結びつきとも異なる結びつきのなかにいること。その世界には浮気も嫉妬も存在しない。ただ苦しみだけが……どこまでいっても自分はひとりなのだという孤独だけが、存在する。その具体的な方法こそが、寝取られである(のかもしれない)。
そもそも浮気や嫉妬の存在する世界と、存在しない世界の、どちらが幸福だと思うかはあなた次第である。しかし僕が唱える「新しい孤独」とは、後者の世界における芸術の経験のことだ。つまり浮気の存在しない世界を、想像的に経験すること——そもそもそれこそが、寝取られの魅惑だと思うが——こそが、「新しい孤独」である(かもしれない)。
最後に付言しておくなら、ここで述べられたふたりという単位は、すべての「ふたり」を前提としている。それはすべての種類の恋人たち、そして友人たちにまで敷衍されるだろう。そこには生者も、死者も蠢いているのだから、あらゆる種類のセクシュアリティ(アセクシャルも含む)が含まれるのだ。
「秘密の共有」は恋人だけでない、あらゆる種類の共同体の成立に役立つ実践的な概念である。だからこそ、それは危険だ。ふたりのあいだでしか共有できないような秘密こそが、より強く、大きな結びつきを作り出す。しかしそうして共有された秘密は、二者の関係をあまりに特別なものとするので、最後には境界を失ってひとりの人間となってしまうのだ。
そして浮気について考えることで「秘密の共有」のふたつの様態が、明らかになる。それは一方では浮気のように、演じられたものであるのだが、もう一方では寝取られのようにすべてが共有された、徹底的なリアルである。
後者における「秘密の共有」に至ったとき。二(三)者の関係はつねに既に破綻している。だから、もはや会うことも話すこともなくなった後ですら、その全員が自分の半分を失うことになるのだ。そうして作られた1.5個の心臓を持つサイボーグは、もはや誰でもないだけでなく、人間ですらないだろう。だから人間として生きることは辛く、美しいのだ。
そのためには浮気をすべきではない。それは保守的で、演じられたゲームに過ぎない。人間存在を矮小化して、つまらない嫉妬を生むだけだ。
より強烈で、徹底的な苦しみに身を投じる覚悟だけが、今日における芸術の等価物である。