2021年の恋愛論
——愛する罪には愛されない罰 1
——歌詞が旋律を動機づけているどころか、旋律のほうが歌詞を支えているのであり、場合によってはそれらの無意味さを正当化している 2
あまりに多くのことがあったから、順番に経験を記すだけでひとつの小説になってしまう。そんな一年だった。それでも時は流れ、こぼれ、そして今日がある。だから今だけは幸福でいたい。いまの僕は赤子と同じ数の表情で覆われている。
そんな一年の最後のイベントは、企業で働きはじめたことである。それは出版社で——美術業界というより社会に対して大きな影響力を持った会社で——だからなのか、かなり自由に働くことが許されている。働くなかで得た経験はまっすぐにアーティスト活動に役立ちそうだし、付属の図書館には雑誌から漫画、小説や学術書までが並んでいて24時間アクセスできるのもうれしい。最近は手塚治虫全集を端から読みながら、書籍におけるイメージとテキストの関係についての考えを深めていて、それはジョルジュ・バタイユが映画における(デ)モンタージュの技術を活用して行った雑誌や書籍の編集と比較されるなかで僕の血肉となっていく。
こうして働くことで「疎外」という言葉の意味を理解したのも事実だ。この身体が「布施琳太郎」や「アーティスト」である以前に、電話口で「〇〇社で△△△をしている布施」と自分自身によって名指されること。自分が自分から剥がれていく。複数の肩書きを得てしまった。この経験だけでも現在の社会のなかで生きる上で知れたよかったと思えることである。
この一年の成長を記すのなら「言葉の力」を思い知ったことだ。言葉には、それ自体に意思があって、その意思こそが僕やあなたの思考を駆動し、変化させる。だから語り方によって、相手が思ったことのないことを「ずっと思っていたことに上書きすること」ができるし、僕は僕が考えたことのないことを「ずっと考えていたことに変更すること」ができる。それこそが言葉の力だ。思考の内側に入り込み、思考自体を変質させる魅惑。昨日まで生きてきたように、生きることをできなくする暴力。それこそが「美しい」や「感動」の本質だと思った。人を傷つけることも、癒すこともできる言葉の、その力の運用過程で、運用する本人自体が書き換えられていく。
そうした言葉の力に自覚的であることが必要であり、その実行力の前では虚構と現実をはじめとしたあらゆる二項対立は無力だ。言葉とは場であり、この場に触れることで人間は、いとも容易く、それまで生きてきたのと同じように生きることはできなくなるのである。そう考えたとき……話芸とは、洗練された洗脳術であるべきなのだが、洗脳するつもりが洗脳されてしまうのが常である(だからこそ「アーティストトーク」や「講評」といった場は、双方向的な洗脳=話芸の場であるべきだとも思う)。
そもそも話すことは発狂だ。そして発狂の極地が恋愛であり、それは二者の双方向的な発狂である。
恋愛関係の破綻は二種類の仕方で生じる。ひとつは発狂の運動から一方が置き去りにされた場合であり、もうひとつは、そもそも一方だけが発狂している場合だ。しかるに、発狂の階段を二人で登ることによってのみ、私たちは恋愛を経験することが可能である。
ある関係が恋愛であるか否かは、性的な欲望によって定義されるわけではないし、ジェンダーに関する研究からも隔てられた問題に思える。そこにいるのが二人であるにもかかわらず、ある契機において、その境界を失いたいと欲望するとき。ひとつになりたいと思うとき。しかし互いに同じ欲望を抱いているのかを確かめる術はなく、世界から隔絶されていく苦しみのなかで、視界が暗転し、「私」という主語が明滅する。あるいは暗闇のなかで網膜が発光して「きみ」が絶滅する。ひとつになる。サイドテーブルのグラスを輝かせると同時に、笑いながら体内を落下するアルコール。互いに理解し合うことができないから私たちは目も合わせず、肌を寄せる。朝日でやわらかくなった布団の匂いを嗅ぎながら、あなたではなく、あなたの汗に触れること(触れたかったこと)。解ける煙草。「きみのためだけに、」という嘘。この嘘は私が私を洗脳するための発狂である。刹那、嘘がめくれて真実になった。しばらくして景色が届くから、失明したい。
こうした極限状態において、私たちが使用するのが沈黙だ。それはもっとも豊かな言葉の利用法である。もはやなにも言うべきではない。発狂を超え、不安のあまり触れることすら忍びながら小刻みに震え、沈黙のなかで見つめ合うことによってのみ、この孤独を耐え抜くとき……私たちは無媒介につながり、融和したひとつの宇宙になる。そこにはたくさんの星があって、二人とは無関係に、生命がはぐくまれる。国ができる。たくさんの名もなき恋人たちが生まれては死んでいく。そこに二人はいないが、二人がいなければ存在することのなかった宇宙。別の身体。決して共有されることのない嘘=虚構の、そのやわらかさこそが恋愛の真実だった。
そして労働は、この嘘から僕を引き剥がす。その疎外こそが、僕に裏垢を可能とし、発狂を真実としてくれるのだ。
あるいは死体。身体の全体性が崩壊することで、当の身体が原形を失って原形質性のエロティシズムにまで到達するような解体と再構築の運動の場としての死体。轢き殺された息子の代替物として生きるアトムに二重に与えられた「いのち」の創造神話。そうした操作=手術(operation)を行ったバタイユ。その狭間で僕は労働をしている。脳裏をよぎったのはデュシャンにおける蝶番——3次元を通過する4次元オブジェとして遅延=絵画である。
ここで死体について語るのは、恋愛が生者たちだけのものではないからだ。なにものかとひとつになりたいという双方向的な発狂。それは人間に対してだけ向けられるものでは決してない。相手の声を聞こうとすること、そして自分の声を聞いてもらおうとすること。昨日までとは異なる自分になってしまうかもしれないような、ひとつのふたり。それが恋愛であり、恋する私は既に死体なのだ。そうした理由に基づいて、バタイユと手塚治虫によって機械化された身体が現在の僕を魅了している。
安室奈美恵「Should I Love Him」
ジャック・ラカン「二人であることの病:パラノイアと言語」